「さがらやぶきた」物語

「やぶきた」種の誕生
明治末期に静岡で画期的なお茶の新種が発見されました。
杉山彦三郎氏が発見した「やぶきた」です。竹やぶを開墾した時、試験園の北側のやぶの中に母樹があったので、
この名前が付けられました。
その樹勢と品質の優秀さが認められ、昭和二十八年に農林省の奨励品種に指定されました。
以降、煎茶の代表的なブランドとして今日に至っています。母樹は、静岡県立美術館近くに移植され、県の天然記念物
として今も大切に保護されています。

「さがらやぶきた」の故郷、牧ノ原の開拓
幕末に、最後の将軍徳川慶喜と共に駿府に移住した旧幕臣たちは、牧ノ原を開拓して茶園を造成する計画を立てました。
当時、新時代の貿易品としてお茶が注目されていたからです。
約200名が参加した開墾は困難を極めましたが、彼らが拓いた土地を地元の農民が受け継ぎ、やがて現在の大茶園へと
発展しました。
大井川の豊かな水、温暖な気候といった好条件も茶園を豊かに成長させた要因です。

「深蒸し製法」の生みの親、山本平三郎翁
山本平三郎翁は明治20年3月15日に静岡県相良町波津749番地で生まれました。
長じて旧制静岡中学を経て東京農業大学を卒業するや直に相良物産に入社。
昭和10年に同社社長に就任。東京農業大学では農芸化学を専攻し、農作物の栽培には造詣が深く、
その後、「やまもとはなやさい」の品種登録を取得した後、地域産業の基幹をなすお茶に情熱を注ぎ、
茶園の肥培管理から荒茶製造、再製仕上に至るまでの一貫した研究に心血を注ぎました。
特に昭和20年代に急速に普及した「やぶきた」種の茶葉に含まれるアミノサン含量が多い事と、葉肉が
厚く加工しにくい事に着目して、多くの方々の協力を得ながら「深蒸し製法」を確立して、地域の茶生産家
への普及に努めました。
このような献身的指導の賜物が、当地方の茶業繁栄の礎となるなど、実に偉大な貢献をもたらし、その偉業
に対して昭和37年静岡県知事より感謝状を贈呈されました。
また、地域の茶生産家の有志からは、その功績を讃え、近くの小堤山公園に翁の胸像が建立されました。

緑茶通信(世界緑茶協会機関誌)第4号(2002年)抜粋
 この深蒸し茶が生まれたのは、静岡県中部の牧之原台地とその周辺部である。この地方は中級茶の産地で、本山、川根、天竜茶のような高級茶産地ではなく、
輸出茶(釜茶、グリ茶、紅茶等)を中心にして発展してきた地域である。その輸出茶が、各般の事情から衰退し、茶は「斜陽産業」と言われた昭和30年前後に、
内地向けに活路を開く役割を担って登場したのが「深蒸し茶」であった。(中略)
深蒸し茶の誕生 山本平三郎(1887〜1962)
 榛原郡相良町波津に生まれる。東京農業大学を卒業し、父親の経営する相良物産株式会社に入社、昭和十年同社二代社長となる。茶問屋と肥料商として
経営にあたり、地域産業の農業に情熱を注いだ。
 実弟に、山本亮農学博士もおり、共に茶業の研究に尽力された。茶の香りについて異常なまでに追求し、川崎町の鈴木章太氏を道案内役にして高知県の山茶、
宮崎県古河の茶、岐阜県の白川茶、愛知県の信楽、神奈川県の足柄、県内では梅ヶ島、水窪、犬居、熊切など、香りを求めて全国各地に出かけた。また、地元
では、浜岡町佐倉で造られた梅園の茶「梅の香」を特別に好まれた。榛原南部の牧之原には無い、山間地の茶や品種茶の香りを、生涯にわたって追い求められた。
 この地方には、明治の頃から「相良組」と呼ばれる、手揉み集団「強力蒸し茶」の気風があり、「お茶は見るものに非らず、飲むものなり」と、香りと味のうまさを本命
とする原崎源作らの考えが山本社長にも流れていたのかもしれない。
 相良物産は、昭和15年頃から荒茶製造機械を設置して、茶の製造法についても研究していた。輸出茶の不振が続くなかで、近在の茶を内地向け茶に適合する
のにはどのような茶を造ったらよいか、消費地の茶商の意見を聞きながら研究を重ねた。生産地でよいお茶が、東京では悪評を受けることが何故か多いことに気が
ついた。静岡茶は「青臭くて、渋みが強い」という批評で、もっと「香りが強く甘みのあるお茶」をと要求された。
 東京築地魚河岸の土屋商店で、各種見本の中から「この茶は最高に良い」と評価された茶は、やぶきた種の手摘み茶葉を、徹底的に蒸した茶であった。「これに
もう少し香りがあれば・・」と要望されたので、再度火入程度を強くした見本茶を作り、評価を依頼すると、焙じに近い強火入れの茶を選び「この茶は、今までの宇治、
川根茶にない、私の求めていた最高の茶である。」という賛辞を頂戴し、来年の茶を大量に仕入れる約束が出来た。昭和二十七、八年のことであった。
 早速も協力してくれる生産家を集め、技術指導を県立茶業指導所有馬所長と小笠郡土方の赤堀磯平氏に依頼した。
 やぶきた種茶園のある精農家で、高林式箱型粗揉機(丸胴型は深蒸し茶には不適)のある工場主を勧誘した。相良町名波友衛さん、浜岡町佐倉の水野さんに深蒸し
茶の試作研究を委託した。この当時の蒸機は、現在の蒸胴の長い深蒸し用のものと違い短胴のため強く蒸すことはできないので、従前からやっていた「赤番茶の製法」
を応用して、蒸機の下部にある扇風器の回転を止め、熱い蒸葉をそのまま冷却せずに、露切りかごに溜めて置き、後蒸し作用を数分間続けた後に、板の間に広げて
放冷する。この方法は、能率は悪いが特別な設備もいらないので、目的は充分に達せられる良法であったがその後、蒸胴を長く改造した深蒸し用蒸機が開発された。
 この蒸葉は、その後の製造操作においても難渋した。粗揉機では茶葉が揉底に沈んでしまって、上がってこないので、葉ざらい手に太い針金を巻いて撹拌を助けた。
また、茶葉が機内に付着したり、固まりができるために粗揉工程の時間が長くかかった。この改善策として、有馬所長の指導で、熱風温度を高め、風量を増加することに
して火炉の吸気口をブリキ鋏で広げた。この方法は「有馬式高温粗揉製法」と呼んで、当時、有馬所長の名を高めたのであったが、一部にはひんしゅくも買った。
 揉捻機は使用しないで、中揉機では小玉が大量にできるので、途中で取り出して玉解きをし、取り出し後も再度この作業を行う、これが、深蒸し茶製造で一番大変な仕事
であった。
 精揉機への投入後も、多量にできる「ミノ虫」を揉み解す作業が続けられた。この様にして造られた「深蒸し茶」は、山本平三郎社長を通じ、除々に共鳴者に普及していった。
 山本平三郎氏は、昭和三十七年九月六日「深蒸し茶」が今日の如くに発展した姿を見ることなく、七十四歳で没した。



「深蒸し製茶」について
牧ノ原台地のお茶は苦渋味が強いために、その改善策として、蒸し度を進めた製茶法が昭和30年代に山本平三郎らによって創り出されました。
このお茶が好評を得て、深蒸し茶、または深蒸し煎茶と名付けられ、静岡県を中心に三重県他数県で生産され、関東方面が主な消費地となって
おります。
牧ノ原一帯に深蒸し製法を広めたのは、弊社社長山本平三郎翁であり、今もなお「深蒸し茶生みの親」として敬われております。
基本的な製茶工程は普通蒸しと変わりませんが、蒸熱時間は標準的な蒸熱時間の1.5倍〜2倍程度です。葉肉の中までよく熱が通るので
その後の工程で粉が多くなりがちですが、香気は優しく、濃い緑色の水色で、味は濃厚です。
深蒸し茶は、蒸熱時間が長く、手間がかかるため、大量生産の工場では不向きで、最近では、蒸熱時間を短くして、その後の工程で「粉」を
多くした「深蒸しもどき」のような製品も出回っており、「深蒸し茶」のイメージ低下が心配されています。

「さがらやぶきた」が美味しい理由
「さがらやぶきた」は、その品質をかたくなに守る為、昭和49年に特許庁の登録商標の取得をしております。
原料は、近隣の個人茶生産家に、弊社指導部が栽培指導を行い、製造に関しても毎日「深蒸し」等品質を細かくチェックして仕入れております。
そして「さがらやぶきた」のうまみを引き出す重要な工程が「火入れ」です。
「火入れ」とは、自動乾燥機で茶葉に残された微妙な水分を取り除いた後、さらにお茶独特の香りとうまみを引き出す為の作業で、これらの工程
は、「荒茶」を一度、「葉」「茎」「粉」等に分けて、それぞれの特性に合わせて行われ、その後、また混ぜ合わせるというきめ細かい工程を行って
おります。そこには、熟練の技を持つ職人がお茶の持つ力を最大限に引き出し、苦味渋味が少なく、深い甘みを持った「さがらやぶきた」に仕上
げます。
深蒸し茶であるため、微粉末が茶碗の底に残りますが、最後まで飲み干すことで、お茶の有効成分がそっくり味わえます。
※弊社指導部では JGAP(Good Agricultural Practice )の指導員を資格を持つ者が指導に当たっており、(1)農産物の安全(2)環境への配慮
(3)生産者の安全と福祉(4)農場経営と販売管理に関する指導体制をとっております。

「山本平三郎」のお茶の注文
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